utsurogi

空木(うつろぎ=中が空っぽ)ながら、多岐多様に詰め込んで勝手なことを吐き出して…。

やっぱり止めた

 年末年始からの連勤で、12月中旬から徐々に準備していた年賀状は見事に手付かずで1枚も書けず…。それでも一応毎年なんだかんだと出してはきていたので、このまま出さないのも何だか気持ち悪くて寒中見舞いを出そうと考えてデザインを考えたりして…。

 その前に、印刷済みの年賀状も少し買っていたのでそれを手数料払って切手かハガキに交換しようと、さらには年賀切手も買っていたのでそれも交換しようと思って郵便局に行ったのに、くじの抽選がまだだからそれが終わってからにした方がよいと親切なのかおせっかいなのか分からない提案を受け…。もう、その時私はあっちこっちと歩き回って手荷物も一杯になって漸くほぼ最後の用事を済ませに郵便局へ行ったので、その提案を退け、強引に自分の意思を押し通す会話をするのもかなり面倒になって「あ、そうですか…」というようなことを言って引き下がった。

 どうせ当たるわけが無いのに。また時間を作って遠路はるばる郵便局へ行かなくてはならない。地元にしても、職場にしても、なんだかんだ言って遠いのだよ、郵便局は…。あぁ…。

 かくして、手元には「幸多き羊年でありますように~」てな年賀葉書と真っ赤な目出度さ満載の年賀切手がしっかと残っているという…。

 

 で、その交換騒ぎ?は別として、寒中見舞いは寒中見舞いで進めて行こうとちょっとデザインのヒントを探していたのだが、なんだかどれもパッとしない。いいのがあればそのまま印刷すれば手抜きもできる(私は今まで全て(裏も表も)手書きでやってきたが、もうちょっと色々疲れているので今年は手抜きしてもいいかなと、出すことに意義があると信じて…)と思っていたのだが、どうもやっぱりなんだかイマイチで…。

 今まで、寒中見舞いも出せなかったときは強引に暑中見舞いを出して、とにかく「その年に挨拶状」を出すということには拘ってきた。

 で、もう今回もその戦法で行こうかと早々に諦めてしまった。

 年末年始の労働が思いの外、予想外に心身に与えたダメージが大きく。ちょっとなかなか元のペースに戻れずにいる。老化というのは本当に正直である。5年前、10年前なら特段どうともなかったであろうが、いやぁ、今年は本当に痛辛かった。。。

 そのおかげで非常に健康に関して、今まで全くと言っていいほど無関心だったことに対して色々と関心が向けられ、ちょっと真面目に取り組んで行こうかなと思っている。

 体は正直。何十年も使い続けていればあちこちガタが出てくるのはアタリマエダのクラッカー。

 ちゃんとメンテナンスをしなければ、いい状態でこの先も使い続けていくことができないのも至極当然。

 今日、フッと思った。その連勤のせいもあって、部屋を片付けることもできず&せず、どんどん散らかっていっていることには気付いていながら、やる時にまとめてやる性格の為そのままにしていたのだが、自分の体もこの部屋と一緒だな、と。

 何のメンテナンス(片付け、整理)もせずに、何も考えずに使い放題(置きっ放し、散らかしっ放し)にしていれば、どんどん体内に悪い物質(脂肪、コレステロール、悪玉菌、ガス、便、疲労物質等々)が溜まり、血流も悪くなり、リンパの流れも悪くなり、自律神経もバランスが崩れ、正常に機能しなくなり、筋肉も衰えたり無くなったり、細胞は消滅する一方で、そんなことしていれば体はすぐにギブアップしてしまうだろうと。部屋もすぐに足の踏み場も無くなり、埃、チリ、湿気、カビの温床となり、清潔な空気も流れず、澱んで汚い空気が滞留し、虫がわき、悪臭を放ち、見るも無惨な、幸運の“こ”の字も寄り付かない状態にすぐになってしまう。

 数年前から断捨利やら人生が上手くいく片付けだのと部屋の片付けと人生をリンクさせた話題が賑わっているが、人生を生きるのはその人・その体なわけで、つまりは部屋とその人自身も密接に関連している、いや、部屋はその人・その身体の状態を表しているのではないかと、今日、フッと思ったのである。

 

 そんなわけで、私の部屋も、私の体もそれなりにメンテナンスをしなくてはいけない時期に入っている。ま、部屋はその内するつもりではいるし、今までも適度に、折を見て当たり前にやってきているが、体についてはここまで実感することはなかったので中年真っ只中に入った今となっては、部屋よりも確実にこまめなメンテナンスが必要になったことを実感している次第。

 ヨガとか、ほんの少しは興味あったが、別に必要と思うほどではなかった。なんとなく流行に乗るのも気持ち悪いと思う性格でわざと避けていた部分もある。
 が、今は必要に近いくらいに思う。日常生活の中で万遍無い自然な体の動き、運動がほとんど出来ていない。凝り固まってしまっている。これでは体の自然な働き、機能を殺してしまう。

 血流、筋肉、あらゆる面における“バランス”…etc。これを維持しなければいけない。現代人でなければそこまで意識しなくてもいいことかもしれないが、現代に生きる人間としては、意識的に、努力して、自然な生活、自然な運動を行わないと、健康な体を維持できない。

 ということで、ピラティスとヨガをやろうと思う。ランニングとかジムとかより手っ取り早く、安く、マイペース至上主義の自分にはピッタリな方法だから。

 人とのつきあいとか面倒臭いし余計なお金もかかるし、宗教チックになるのも勘弁してほしいので自分の好きなようにやりたい。

 

 興味はあっても何となく異質な世界のように遠巻きに見ていた部分があるが、調べてみたら、これはやっぱり体には良さそうなのである。有酸素運動、呼吸、筋肉への影響とか…。

 なんのきっかけだったか忘れたが、自律神経にも興味を持って調べたら、やっぱり呼吸は大事だと。そして、血流、腸を活発にすることも含めそれらが自律神経のバランスを保つこととも密接な関わりがあり、適度・適切なストレッチなど、体を動かすことも大事だと。もう、何というか、リラックスして、体の深部から動かして…って、“心技体”的な全方位的且つある程度のレベルを維持する活動が重要なわけで、それを考えるとヨガとかピラティスって本当最適だなぁって思ったわけ。

 少しずつやっていければよいな、と今は心から思っている。

 

*・*・*・*・*・*

 

 もうここ数年、労働条件がそうさせるという面もあるけれど、まともな食事、まともなというか普通の生活をしていないのだけれど、食生活に関しては、もともと少食でもあり、時間も無いしってことで、簡単にパンを食べたり、キャベツを食べたり、サラダを食べたり、という、本来の粗食の意味とは違う別の意味での粗食生活をしていることもあり、まぁ、肉などは殆ど食べなくなった。魚は元々あまり好きではないし。

 で、たぶん毎朝ヨーグルトとかキウイとか食べたりしてるのも多少は奏功しているのだろうけれど、お陰様で健康そのものな体を維持している(内臓的には)。

 自分がそんなのだから、いい歳した人が毎日肉ばっかり食べてるとか、野菜は殆ど食べないとか、昼はマクドナルド食べてるとか見聞きすると、「あー、この人あと何年か後には血管系の病気になるだろうなぁ」とか思ってしまう。そして、最近気になるのが“ニオイ”。そういう食生活をずっとしている人って、なんだか知らない異臭を漂わせていることに気付いてしまった。もう細胞レベルでそういう食生活に汚染されてしまっているのではないかと…。正直、独り者じゃないんだから、もう少し考えて食事させてあげればいいのに…とか思うし、お連れさんも同じような食生活をしていれば数年後は絶対悪影響が出てくるだろうし、いやぁ、なんだかちょっと気の毒になってしまった。。。

 でもホント、ニオイはあかんやろう。ニオイは…と。

 

 あなたの体はあなたの食べたもので出来ているのです。

 

 すっごい当たり前のことだけど、本当にそう。

 少し前に「あなたの体は半年前に食べたもので出来ている」という感じの本があったけれど、食べたもので出来ているのはわかっていたけれど、半年前のものが今のこの体を成しているのだとは知らなかった。

 ま、期間はそこまで厳密に考慮しないとしても、とりあえず、間違いなくあなたの体は、あなたが食べたものをあなたの体が働かせられる範囲の機能を使って作られているわけで、機能が衰えれば食べたものをちゃんと血にも肉にもエネルギーにもできないし、機能でもって変えようとしても素材が悪ければそれなりのものしか作れない、活かせないわけで…。

 人間の、生命の営みって、食事と運動が基礎、根本だなぁと、つくづく実感するわけですねぇ。

 

 ただ、体にいい食生活、体にいい運動(ヨガの先生とか)をしていても、まぁ、病気になって若死にする方はいるようで。人の人生・運命っていうのはホント、一筋縄では行かない、考えられない、摩訶不思議なものなんだよなぁ、とは思ったけれどね…。

 

 どんな善人でも早死にしたりするし、それはまぁ、大阿闍梨様も仰る通り、この世でのお勤め(修行)はもう十分やってしまったから、あの世で楽に過ごしていいよ、と神様が招いてくれたということで、いつまで経ってもこの世でじたばたしながら生きていないといけないのは、まだまだこの世でしなければならないこと、それは自分自身の修行だったり、他者に対する役目がまだ残っていたりするということなんだろうけれど、まぁ、とりあえず、この世にいないといけない間は少しでも心身共に健康な状態のほうが何かと楽でいいやね、ということである。

 

*・*・*・*・*・*

 

 寒中見舞いからえらく脱線したが、とりあえず、私の数少ない知り合いの皆さん、今年は暑中見舞いに致します。申し訳ないです。

 今から夏に向けて、送る人のリストアップからまず始めないと。(そこからかw)

 でも、その前に軽く挨拶しておいたほうがいい人には何かしら連絡もして…と。

 うー、そうなると、やはり先に部屋の片付け、いろんな物の整理が先か…。春までにはできるだろうか…。(考えただけで溜息しか出てこないけど…)

 

 今年ねぇ・・・・。

 どうなるんだろうね・・・・。

 

 密かに、今年無ければ、もう真面目に一切縁を切るというか、本当に縁の無い人だったんだと思って正真正銘の他人状態になるつもりではある。来年からは向こうが停滞・待機期間突入だから新しいことなどを起こしてはいけない。そうするともう私はそれを待っている時間的余裕はないわけで、待つということ自体が愚か過ぎて、そんな発想になどならないし、さらさらしない。

 だから、まぁ、今年1年、せいぜい頑張ってください、と心の中ではまだ少しだけ応援をしている。口では今年が最後の一年であることは言っていないが。(既に終わっていることになっているので言うほうがおかしいが…)

 ホント、どうなるのか。今年の最後が少しだけ楽しみ?ではある。

 

終わり。

 

 

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photo credit: Matt's Flicks via photopin cc